SPEED STAR リターンズ!Vol.02 97年8月発行 |
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| エンジンをやらにゃ勝てんだろう 養成所生活は”競争“だった。 18歳というほぼ最年少で養成所に入所した佐々木にとって、10ケ月間の養成所生活はハードだったろう。彼は、その生活をざっくばらんに表現する。 「養成所の生活はもう我慢の連続ですね。自分18で入ったんですが、まだそれって若いじゃないですか。ブンブン遊びたい時期にこんなとこに入れられて、というのはすごくあったんでしょう。ほんと、つらかったですよ。朝が早いことがまずつらい。6時起床。走って、トレーニングして。(養成所の)外に出れないこともつらかったし。あと、自分すいTVが好きで、テレビっ子だったんで、正月明けるまでテレビ見られなかったのがつらかったすね。…でも、入った時点でもう競争の世界じゃないですか。まわりがおって、みんなこうやっていきよんのに。そういう競争になってきたらやっぱりやってやろうと、そういう気になったみたいです」 佐々木の負けず嫌いはスジガネ入りだ。平成5年、佐々木は養成所を卒業し、地元の山陽オートレース場に配属されることになる。当時の佐々木について、師匠の高橋光利(山陽・9期)は述懐する。 「ケガですか。そういえば練習中、足の指の骨を折ったけど、いつだったかはもう覚えてないなあ。今思い出すとやったかなあ、くらいの感じで。…肝炎での入院にしても、あせりは特になかったですね。足、折れたりしてあとから曲がらんようになったりしたらコトだけど、病気ですからね。デビューも遅れずに済みましたし」 イメージの蓄積が、混戦に動じないレース運びを生む。 平成6年。佐々木は浜松で行われた新人戦で準優勝を果たす。佐々木の走りに関する同期の評価はこうだ。 佐々木の魅力は、そうした冷静さとある種の“気合”の同居にある。 「たとえばハンデ位置とかみて、スタート切ったら行けるんじゃないかといういい位置にあるとき、これは勝たにゃヤバイやろと自分に言い聞かせるんです。ひとには言わないですけどね。『切らにゃおまえクビよ。そうなってもいいんか、ビヤーツ!』 って、そんな感じで」 ところで白次・浅香両選手と佐々木とは、実は車名にある共通項がある。佐々木が「ルパン」、自決が「フジコ」、浅香が「ジゲン(今夏エンジンが大破して現在は「モンキーパンチ」)ご存知人気アニメ「ルパン3世」に縁の深い名である。同期との関係に水をむけると、佐々木の表情が明らかに和らぎ、ちょっとやんちゃな瞳になった。 マシンを一か所いじるたび、練習。果てしない試行錯誤は続く。 平成8年。浜松で行われた秋のスピード王決定戦でGI初優勝を飾り、年間の獲得賞金金額も3千万円を突破。一流レーサーヘの道を順調に歩きはじめた佐々木だが、この夏はやや調子を落としている。 「今の課題はもっともっと整備力をつけること。飯塚行ったら合わんとか、浜松行ったら(エンジンカが)出らんとか。それじゃいかん。気候とかの問題やと思いますけど、そういうところに自分はまだ合わしきらん。まだまだ勉強不足だなあと思います。ここ船橋は自分は相性がいいんですけどね・・・つて、そういう言い方すること自体よくないんですよね。どこでも行けるようにならんと」 今は、どのレース場でも、どんな天候でもベストなコンディションに整備するための“データ集め”の時機なのだろう。とすれば、佐々木は十分なデータが揃ったある日を境に爆発的に強くなる、スーパースターに“化ける”選手なのかもしれない。 インタビューの終了を告げ、録音機材のスイッチを切ると佐々木は「今日はちょっとしゃべりすぎたかもしれん」とぽそりと言い残し、こちらを振り向くことなく、ふたたび、明日乗るマシンの整備へと戻った。 | |||||||||||||||
※文中敬称略 ※文中のデータはすべて1997年8月現在のものです。 |
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