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オートレース|SPEED STAR vol.26リターンズ!Vol.02 97年8月発行

  SPEED STAR リターンズ!Vol.02 97年8月発行
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黒潮列伝02

エンジンをやらにゃ勝てんだろう
という水準までは、いちおう来たんかなぁ。

養成所生活は”競争“だった。
逃げ出すわけにはいかなかった。

 18歳というほぼ最年少で養成所に入所した佐々木にとって、10ケ月間の養成所生活はハードだったろう。彼は、その生活をざっくばらんに表現する。

 「養成所の生活はもう我慢の連続ですね。自分18で入ったんですが、まだそれって若いじゃないですか。ブンブン遊びたい時期にこんなとこに入れられて、というのはすごくあったんでしょう。ほんと、つらかったですよ。朝が早いことがまずつらい。6時起床。走って、トレーニングして。(養成所の)外に出れないこともつらかったし。あと、自分すいTVが好きで、テレビっ子だったんで、正月明けるまでテレビ見られなかったのがつらかったすね。…でも、入った時点でもう競争の世界じゃないですか。まわりがおって、みんなこうやっていきよんのに。そういう競争になってきたらやっぱりやってやろうと、そういう気になったみたいです」

 佐々木の負けず嫌いはスジガネ入りだ。平成5年、佐々木は養成所を卒業し、地元の山陽オートレース場に配属されることになる。当時の佐々木について、師匠の高橋光利(山陽・9期)は述懐する。
 
「養成所でケガをしたというし、こっちへきて早々に肝炎で1か月も入院した。カラダが弱い子かと(笑)心配したんですが、そんなことはなかったですね。平均的なオートレーサーに比べても運動神経も発達していましたし。表面には出さないけど気の強い、芯のある男です。素直に話は聞くんですが、“もう練習いいぞ”といった時は、本人が納得いってないと、もう少しもう少しと何度でもトライする。そんなところがありましたね」
 
 デビュー前に体験した2つのアクシデント。不安はなかったのだろうか。

 「ケガですか。そういえば練習中、足の指の骨を折ったけど、いつだったかはもう覚えてないなあ。今思い出すとやったかなあ、くらいの感じで。…肝炎での入院にしても、あせりは特になかったですね。足、折れたりしてあとから曲がらんようになったりしたらコトだけど、病気ですからね。デビューも遅れずに済みましたし」
 
 それは真実の一面なのだろう。しかし、ケガや病気を言い訳にはしないという彼なりの決意表明の言葉にも聞こえてくる。

 イメージの蓄積が、混戦に動じないレース運びを生む。

 平成6年。佐々木は浜松で行われた新人戦で準優勝を果たす。佐々木の走りに関する同期の評価はこうだ。
 
 「リズムに乗ってるような自在な走りをしてる。もう新人の時から、おっかなびっくりじゃない、どっか自信がありそうで、しかも頭の回転がよくて鋭いことを考えてる、そういう走りをしてました」 (白次義孝選手・船橋・23期) 「新人戦の時も啓ひとりだけうまいなって、みんな言ってました。みんな中使おうとするんですけどうまく使えない全然ぎこちないレースばっかで、なのに、あいつだけが外回っても速いし、中もうまく使うという、そういうレースをしてました。混戦の時とかもほんと、落ちついて冷静にレースを運んでる感じがしますよ」 (浅香潤選手・伊勢崎・23期)
 
 冷静さの由来について、佐々木自身に開いてみた。
 
 「それは自分のイメージなんですよ。たとえば小林さん(小林啓二・山陽・8期)とか代表的な選手のレースを見るじゃないですか。するとレースが締麓なんですよ。ああいうサバキとかしてみたいな、そういうレベルまでいきたいなというのでずっと見てたから。そういうイメージが自分にあったからじゃないですかね。まあ、それなりの練習はせにゃいけんですけどね。そういう走りは」

 佐々木の魅力は、そうした冷静さとある種の“気合”の同居にある。

 「たとえばハンデ位置とかみて、スタート切ったら行けるんじゃないかといういい位置にあるとき、これは勝たにゃヤバイやろと自分に言い聞かせるんです。ひとには言わないですけどね。『切らにゃおまえクビよ。そうなってもいいんか、ビヤーツ!』 って、そんな感じで」

 ところで白次・浅香両選手と佐々木とは、実は車名にある共通項がある。佐々木が「ルパン」、自決が「フジコ」、浅香が「ジゲン(今夏エンジンが大破して現在は「モンキーパンチ」)ご存知人気アニメ「ルパン3世」に縁の深い名である。同期との関係に水をむけると、佐々木の表情が明らかに和らぎ、ちょっとやんちゃな瞳になった。
 
 「いっしょにSG出たいなとかは、いっつも思ってますよ。ルパンとジゲンでワンツーとかつてカッココええやないですか。ゴエモンもいるんですよ。山陽に。林(弘明・24期)。自分がつけろといったのかな。いや、林がつけさして下さいといったということにしとこ(笑)」

 マシンを一か所いじるたび、練習。果てしない試行錯誤は続く。

 平成8年。浜松で行われた秋のスピード王決定戦でGI初優勝を飾り、年間の獲得賞金金額も3千万円を突破。一流レーサーヘの道を順調に歩きはじめた佐々木だが、この夏はやや調子を落としている。

 「今の課題はもっともっと整備力をつけること。飯塚行ったら合わんとか、浜松行ったら(エンジンカが)出らんとか。それじゃいかん。気候とかの問題やと思いますけど、そういうところに自分はまだ合わしきらん。まだまだ勉強不足だなあと思います。ここ船橋は自分は相性がいいんですけどね・・・つて、そういう言い方すること自体よくないんですよね。どこでも行けるようにならんと」
 
 師匠の高橋も「整備を覚えたらもっと強くなる」と指摘するが、佐々木は、そのために現在所有している3台のエンジン別に、3冊の整備ノートをつけている。ノートには、例えばシリンダ交換なら、替えたピンやピストンのサイズと、その状態での走りの感想までが細かく記録されている。
 
 「いやあみんなやってますよ。自分はつけんほうじやないですか。最近は、エンジンでもなんでも何かいじったら練習、何かしたら練習ってゆうパターンを覚えたから。整備して練習。ダメやったらまたいじって練習。レースと同じエンジン(状態)では練習にいかんです。同じことをしててもしょうがないですから。今までは乗ることだけが練習で、とにかく開けて回ること重視。エンジンはどうでもえーくてとにかく回るだけだったんですが。最近はとにかくエンジンをやらにゃ勝てんだろうという水準まではいちおう来たんかなあ。…にしても整備に関しては、経験も、それから努力もまだまだ足りない。もっともっと努力せんと。ひとがひとつするところを3つも4つもするひとには勝てないですよ。わかってるんですけどね」

 今は、どのレース場でも、どんな天候でもベストなコンディションに整備するための“データ集め”の時機なのだろう。とすれば、佐々木は十分なデータが揃ったある日を境に爆発的に強くなる、スーパースターに“化ける”選手なのかもしれない。

 インタビューの終了を告げ、録音機材のスイッチを切ると佐々木は「今日はちょっとしゃべりすぎたかもしれん」とぽそりと言い残し、こちらを振り向くことなく、ふたたび、明日乗るマシンの整備へと戻った。
 最後に黒潮杯の成績だが、準決勝で入着を逃し、決勝進出は果せずに終わった。佐々木のブレイクまでには、今少し時間が必要なのだろう。

※文中敬称略
※文中のデータはすべて1997年8月現在のものです。
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